近年のケータイの受容・普及は、わたしたちの日常生活のさまざまな場面を変容しつつあります。ケータイをはじめとするメディア機器は、便利な“道具(tool)”として語られることが多いのですが、これは、比較的あたらしいメディア機器が受容され、普及していく過程に特徴的なことだと考えられます。つまり、ケータイと接触する初期の段階では、それによって何が可能か、従来のメディア機器の機能をどのように代替または補完するのかといった点に関心がおよびます。しかしながら、ケータイの急速な受容・普及にともない、すでに買い換えや付加機能への欲求が喚起されているフェーズに入りました。最近ではケータイの多様化がすすむとともに、さまざまな機能が搭載されたケータイが人気を集め、社会的に認知されています。
こうした変化のなか、ケータイは“道具(tool)”としてではなく、あたらしいメタファーによって語られるべきではないでしょうか。ケータイは、つねに身体にきわめて近いところにあり、わたしたちの日常生活に必要なさまざまな情報がケータイのメモリーに保存されるようになりました。電話の本来の機能である「通話」よりも、文字(メール)、画像、動画などのデータを「通信」するために活用されることが多いのです。わたしたちの日常生活とケータイとの関わりを考える際、“道具(tool)”に代わるあたらしいメタファーで理解することが重要です。ケータイをめぐる環境の変化は、日常生活におけるコミュニケーション欲求、時間のマネジメント、ひいては人間関係や組織のあり方にいたるまで、多様な側面に影響を与えうるはずです。ケータイは、腕時計やメガネのように、もはや身体の一部となって機能する、生活に必要不可欠な“装備(gear)”として位置づけるべきものかもしれません。わたしがとくに注目しているのは、カメラ(およびGPS機能)を搭載したケータイです。こうしたケータイを日常的にもちいることによって、みずからを取り巻く風景(環境)を、時間・位置情報とともに記録することができます。つまり、あたらしい“装備”は、わたしたちが、「いつ・どこで・何を見ていたか」という日常生活の断片を記録し、蓄積することを容易にするのです。
いっぽう、「社会調査」や「フィールドワーク」という領域においては、わたしたちの日常生活を詳細に観察・記録する方法をつねに模索してきました。とりわけ定性的な「社会調査」をするにあたっては、調査の対象となる〈事物・事象〉への感受性ばかりでなく、調査者自身への感受性も重要です。つまり、調査者としての自分が、いかなる〈立場〉で〈事物・事象〉を見ているのかをどれだけ意識できるかという問題です。また、その〈立場〉をどのように明示的に表現できるかが問われることにもなります。
フィールドワークをおこなう際には、現場での観察や気づきを書き留めるために、「フィールドノート」を書くのが一般的ですが、テープレコーダーやビデオカメラが普及した結果として、さまざまなスタイルの「フィールドノート」が生まれました。つまり、観察・記録・再生のための技術が変わることによって、わたしたちの調査のスタイルも変化しうるのです。いまでは、ケータイで写真を撮って、ウェブ上で公開することができます。サイズや画質にはまだ問題がありますが、みずからの生活(あるいは調査活動の軌跡)を記録するのに役立ちそうです。
たとえば出先でケータイのボタンを押して写真を撮る…。ちいさな1枚の写真には、いったい何が「写っている」のでしょうか。矩形に切り取られ、「写される」のは、ある年代のある土地の風景だけではないのです。ふだんはさほど意識しないのですが、写真には、〈その時・その場〉で想起された過去や未来の風景も「写されて」いるのです。出先で眺めた風景が、過去や未来のさまざまな「イメージ」によって規定されていると考えると、1枚の写真は、現在の自分と過去(あるいは未来)の風景とを結ぶはたらきをしていることに気づくでしょう。これは時間的な隔たりにかぎられたことではありません。1枚の写真をつうじて、わたしたちは、空間的な連なりや、人と人との関係のなかで現在のじぶんを位置づけることができるのです。過去、現在、未来という区別そのものが流動的で曖昧であり、「写された」写真は、移りゆく風景を、あるいは変わっていくじぶんを暫定的に「記録」したものにすぎないからです。下の3枚の写真は、いろいろな時・場所で「写された」ものですが、それは同時に〈その時・その場所〉でのじぶんも「写している」…と考えることができます。年末の慌ただしい中、東名高速のサービスエリアで見た富士山。キャンパスの建物から偶然見えた富士山。新幹線の中から見えた富士山。それぞれが、「富士山を見ていた自分」の記録なのです。

わたしたちの日常生活にはさまざまな「個人的記録」があります。写真、手紙、日記、切符、伝票、成績表など、すべて広い意味で「生活記録」とよぶべきものです。そして、さまざまな「生活記録」をつうじて、じぶんの生活が埋め込まれた社会的・文化的な文脈や、じぶんの内面について洞察をくわえることができます。「ケータイでまちをつくる」では、ケータイを日常生活に不可欠の“装備”として認識することによって、社会についてのあたらしい理解の創造を試みたいと思います。“装備”としてのケータイは、人間関係やコミュニケーションの基本とも言うべき〈見る=見られる〉という関係性を大きく変容させます。そして、ケータイ環境の変化は、地域コミュニティにおける情報の共有、学習・教育分野での活用、社会的記憶やパブリック・ヒストリーの問題など、わたしたちをとりまく(広義の)「環境」に関わるさまざまな問題に直結しているのです。
●この文章は、2002年12月におこなわれたケータイに関するワークショップ(慶応大学・湘南藤沢キャンパス:ドコモハウス)での報告用概要『ケータイを用いた「生活記録」の収集に関する研究(加藤文俊・上本竜平)』に加筆・修正したものです。
●「ケータイでまちをつくる」は、ケータイラボラトリでの活動の一環として書く予定です。おなじ記事は、ケータイラボラトリのサイトにも掲載されます。