「時計」をつくる。:ふり返り

ふり返り 

「キャンプ」を終えてから、ふり返りのレポートを書いてもらいました。レポートというかたちではありますが、それぞれが、現場での体験を綴った、「フィールドノート」のようなものです。レポートから、いくつかの論点を紹介しましょう(以下の引用は、提出されたレポートの原文どおり)。

camp_0423_1.jpg…私たち人間は1日を24時間に区切ってその時間を共有し、1日の時間を定義しているのも事実である。その区切られた時間を、どのように使うか、如何にコントロールするかは個々人のセンスと性格と仕事や学校などによって異なる。今回のキャンプを通して、時間は時計の中だけじゃないということも海を見て、そして人の流れを見て再確認することができた。
大都会にいる自分と海にいる自分を比べた時、その日が1日中、何も予定がない日だとした場合、海にいる自分のほうが、時間を気にせず、夕方になったから帰ろうとか、寒くなったから帰ろうとか、疲れたから帰ろうという気分にさせられる。それは、いったいなぜなのだろうと不思議に思った。私たちの班は、海という場における人の数、そして人の流れで時間を感じ取ろうとした。実際に新しい単位を作ったものの、その単位を作り出す上で実際の時計の時間を用いて測定した事も、結果として実際の時間にとらわれてしまったと思った。加えて、新しい時間の単位ができて、その単位を見たら第三者が、家に帰る時間がきたなとか、海に入っていい時間だなというのが一目でわかるような目安まで、あの時にできたらもっとおもしろい時計が出来ていたと私は考えた。
camp_0423_2.jpg「時間」も「感情」に似ている。時間は、目に見えない。また、時間の流れる感覚は個人(または集団)のその時々の状態(または状況)、更には場所によって異なる。時間は、相対的で非常に曖昧模糊としたものである。それを、可視化させ、絶対性を有したものが、既存の「時計」である。
僕は先学期もとある授業で「時計」をつくる機会があった。その時思ったのは、世の中には当たり前だと思っているが、実際よくよく考えてみると変だ、と思うようなこと・ものが存在するということであり、その最たる例が時計であった。先述の通り、時間は相対的であり、個人の感覚に依拠する。それを、絶対的な尺度で表現する時計に僕は違和感を覚えた。確かに、時計は便利だけど、もう少し違う表現があるのではないかと思った。その時は途中でコンセプトが変わり、結局、少し違うアプローチをしたのだけど、今回再び時計をつくるにあたって、僕は「残す」と「消える」がキーワードのように感じ、その二つのキーワードの折衷が「足跡」なのかもと思った。時計とは時間の流れを表現すものであり、そして、その時間の流れを感じるのは、足跡(残されたもの)であり、時間の流れはまたその足跡を消すからである。今回の僕のグループの「あしあと時計」がよかった悪かったかはともかく、既存の、同じ刻みをひたすらに周期的に続ける時計よりも、「時間の表現」(というコンセプト)自体はうまく表現出来たと思っている。

※全員のふり返りレポートは、「場のチカラ プロジェクト」のウェブからダウンロードすることができます(メンバーのみに公開:パスワードが必要です)。
「キャンプ02(2008年4月23日実施)」ふり返りレポートLinkIcon

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02:「時計」をつくる。
2008年4月23日(水)

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