加藤文俊


フィールドワークやカレーキャラバンの活動を続けているせいか、歩道、公園、駐車場や空き地など、建物の「あいだ」に目が向くようになった。まちなかに偏在する「あいだ」を眺めながら、まちの歴史や成り立ちを考えたり、あるいはこれからの姿を想い描いたりする。そして、人びとが行き交うようすや、立ち止まっておしゃべりをしている光景を想像してみる。結局のところは、人びとの「居場所」に関心があるのだ。(じつはもっと直接的に、カレーづくりに適した場所はないか、つねに“ロケハン”をおこなっているのかもしれない。)

桜の季節ともなれば、ちょっと散歩に出かけようという気分になる。まちに誘われる。だが、まちはいけずだ。ときおり、そう思うことがある。一歩外に出れば、カラーコーン、標識、立て看板の類いが、禁止や警告のメッセージを送り続けてくる。美観の問題もあるが、なにより、あれこれとうるさく言われているようで、窮屈に感じられることさえある(もちろん、しかるべき表示がなければなかったで、これも“クレーマー”たちの標的になってしまう)。
 

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じつは、もう少しちがった形で届けられているメッセージもたくさんある。物理的・空間的な設え自体が、ぼくたちのふるまいを制限しているような場合だ。最初は違和感をおぼえても、見慣れてくると、それが「あたりまえ」だと思ってさほど気に留めなくなってしまう。先日、冊子やブログにも書いたのだが、たとえば公共スペースにある「外」水道は、見てのとおり、ふだんは使えないようになっている。もちろん、その理由はわかる。そして、正当な理由なのだと思う。そもそも誰かが管理している(水道料金を負担している)のだから、誰もが自由に使う状況を想定していなければ、当然、ひねることのできない水道になる。単純な話だが、すぐそこまで水は来ているはずなのに、アレがないと、水を出すことができない。逆に、アレさえあれば、水に触れることができるのだ。

1*B3OS8eNdd9MsrOwzf7rCLQ.jpeghttps://www.monotaro.com/p/3461/5707/子どもの頃、近所の「外」水道をたびたび使った記憶がある。ころんで膝に擦り傷ができたら、水で流す。汗をかいたら、ちょっとした水浴びをする。とくに誰かに断ることもなく(そもそも、その時分に、事前に誰かに断ることなど考えていなかったと思う)、水に触れていた。子どもだから許されていたのか、あるいはそういう時代だったのか。いずれにせよ、アレがなくて使えないなどということはなかった。水道は、どこにあろうと、ひねることができるのが「あたりまえ」だった。

ところで、くだんのアレはなんと呼ぶのだろう。気になって調べてみたところ、どうやら「共用水栓鍵(共用水道栓鍵)」と呼ばれているらしい。安価なものなら、100円程度で買えるということもわかった。もちろん、ぼくたちにとって水へのアクセスは大切だが、この「共用水栓鍵」は、ひとつの象徴的なモノとして(いわばメタファーのように)位置づけながら、いろいろと考えてみたい。ひねることのできない水道に、「共用水栓鍵」が加われば、水が出る。このような「足し算」が成り立てば、「あたりまえ」になってしまった状況が、にわかに揺さぶられる。実際に、まちに対して「足し算」を施すためには、さまざまな調整も手続きも必要になる。言うまでもなく、実現が難しいことも少なくない。

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「共用水栓鍵」は、まさにそのままという名称だが、あらためて考えてみると面白い。ここで「共用」なのは、水栓のほうだ。水栓そのものはすでに「外」に設置されているのだから、誰にでも(ただし使えない状態で)ひらかれている。そして、鍵は「共用」ではない。水栓を管理する人が、文字どおり鍵を握っているのだ。「いけずなまち」と向き合うための方法や態度について考えるとき、鍵は何か。鍵はどこにあるのか(誰が持っているのか)。「共用水栓鍵」を象徴的に理解するなら、鍵は有形であるとはかぎらないと考えることもできる。大事なのは、有形・無形のアレを見つけることだ。何らかの仕組みや場づくりの方法が鍵の役割を担って、「あたりまえ」を変えてゆくのかもしれない。「いけずなまち」に抗うだけではなく、創意くふうによって、まちをひらくための鍵を探してみようと思う。

◉この文章は、2016年4月9日にMedium (the first of a million leaps)で公開したものです。
◉調査の概要等については、冊子『いけずなまち』で。(PDF版は9月下旬に公開予定です。)