はじめに人々が集うカゴ盆栽リヤカーサワディー

(Updated: 2015-08-06

はじめに

加藤文俊

「別れ」の風景


気まぐれに、友人のミタさんとあれこれと話をする機会がある。もう何年か前のことになるが、なぜか「別れ」についての話題で盛り上がった。以来、ときどき「別れ」の風景について考える。

もう会えないかもしれない。そう実感する機会が、格段に減っているのではないか。そんな話をした。たとえば、いまどきの海外留学は、ぼくのころにくらべて、ずいぶん変わった。当時は、まだ電子メールを自在に使えるような環境ではなかったので、時差や料金を気にしながら国際電話をかけたり、ポストカードや手紙を書いたりして、家族や友人たちとやりとりした。もちろん、飛行機に乗ればすぐに戻って来ることはできたので、「退路を断つ」というほど大げさではなかった。

いまなら、地球の裏側で時差があっても、どちらかが夜更かし(あるいは早起き)していれば、おなじ時間を分かち合いながら、メッセージをやりとりすることができる。ケータイだって、ふだんどおりに鳴る。検索して誰かを辿れば、多くの知人たちと連絡が取れるような気もする。全然、離れている感じがしないのである。ミタさんの「仮説」はいささか衝撃的で、いまや「別れ」を実感できるのは、文字どおり、この世から消える時なのではないかというものだった。

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ここ数年、三宅島でのプロジェクトにかかわっていたので、何度も船旅をする機会があった。そして、帰る日になると、いつもミタさんの「仮説」を思い出した。もう会えないかもしれない、とは考えにくい。この世から消えてしまう感じもない。だが、デッキに立って、だんだんとちいさくなっていく島を眺めていると、なぜだか哀しくなる。無性にせつない。湧き上がってくるのは、また来たいという想いだ。離れてゆく哀しさではなく、執拗に再会を求める気持ちが、「別れ」を感じさせる。じぶんのなかで鈍っていた感覚が、少し戻ってきたように思えた。

さようなら、こんにちは。


2015年度春学期は、この「別れ」の風景について、場づくりやコミュニケーション行動と関連づけながら考えてみることにした。名残惜しい気持ち、集ったひとときの痕跡、かなわない(かもしれない)約束、余韻に浸る時間。こうした感情や場面を想い浮かべるとき、ぼくたちが、つねに「移動しているということ(オン・ザ・ムーブ)」を、あらためて実感するのだ。くり返される毎日のなかで、ぼくたちは、「出会うこと」ばかりを考えがちだ。身近になったSNSはもちろんのこと、さまざまなメディアは、「つながること」をしつこく要求する。「別れること」には、向き合おうとしない。多くの場合、「つながりを断つこと」は、歓迎されないのだ。

だが、あたらしい場所を知り、あたらしい「何か」に出会うためには「移動」しなければならない。もとより、人は人に会うために旅をするのだ。フィールドワークも、おなじだ。「こんにちは」とともに現場に入り、しばらくしたら、「さようなら」を告げて調査を終える。そして、つぎの現場へと赴く。

ぼくたちは、「別れ方」について、もっと学ぶ必要がある。スッキリとした気持ちと手続きで「別れる」ことこそが、つぎの活動をいきいきとさせるからである。考えるべきは、「爽やかな解散」なのだ。

「爽やかな解散」を理解するために、まずは、移動を前提に活動している人びととの接点を探すことにした。たとえばフリーマーケット、屋台(移動販売トラック)、大道芸、ストリートミュージシャンなど、じつは、ぼくたちの身の回りには、毎日のように「別れ」をくり返している人びとがたくさんいる。学生たち(学部2・3年生)は、グループに分かれてフィールドワークやインタビューをおこない、設営や撤収に必要な態度と方法の記述を試みた。もちろん、船旅のときの「別れ」と、カーゴバイクやリヤカーとの「別れ」では、ずいぶん状況がちがう。だが、今回の調査対象となったひとり一人の価値観や生きざまには、「別れ」を理解するためのヒントがたくさんある。

確実に存在感を放ちながらも、いつでも簡単に姿を消すことができる、約束はしないのに、不思議なことに、また会える気がする。ぼくたちは、「こんにちは」と「さようなら」を交互にくり返しながら、毎日を過ごしている。それが、「移動しているということ」だからだ。

さようなら、こんにちは。「さようなら」から発想して、つぎの「こんにちは」までの時間や道のりを考えることが、「移動しているということ」を際立たせるはずだ。

(2015年8月3日:あとでもう少し書き加えます。)
(2015年8月4日:加筆・修正しました。)

慶應義塾大学 加藤文俊研究室(2015年度春学期)