恵比寿の余白

Now you see it, now you don't

恵比寿の余白

加藤文俊

ぼくたちの日常生活は、いくつもの出来事の連なりだ。それは、集まりや移動などのために、さまざまな形で分節化されている。手帳やカレンダーを見ると、日付や時間に沿って、仕事やプライベートの予定が秩序よく並んでいるはずだ。移動するさいには、「乗り換え案内」のようなアプリに頼ることが日常になった。カレンダーに「空白」が目立つと、なぜか強迫観念をいだいて、次々と予定を入れて埋めようとする。スピードや効率を求めて、移動する時間をできるだけ節約しようと試みる。その結果、時間も空間も、そして心までもが余裕のない状態になってしまう。

何も予定がない日、まちに出かけて、ノープランで彷徨う楽しさを知っているはずなのに、どうして余裕がなくなってしまうのだろう。寄り道をすれば、あたらしい出会いもある。人びとの暮らしの機微を感じるためには、ある程度のゆとりが必要なのだ。そう思っていながら、ぼくたちは、細切れになった時間と空間のなかを行き来している。
 
年末、学生たちと忘年会を開いた。ちょうど年の瀬で、店は大繁盛だった。一本締めでひとまずお開きになり、まだ早い時間だったので二次会に行こうという流れに。まさに忘年会シーズンというタイミングで、店を探すのは難しい。誰の発案だったかおぼえていないが、結局、近くの公園で過ごすことになった。何とも安上がりな二次会だが、立って取り囲めるような、格好の場所があった。
もちろん、そのために準備されているわけではないが、バーのカウンターと同じくらいの高さ(100〜110センチくらいだろうか)の台状のモノが、公園の入口付近に立っている。道路側から見える面には、公園の名前が載っているので、看板の役目を果たしているモノだ。奥行きも、簡素な立ち呑みのカウンターのようなサイズで、みんなで取り囲んで語らうのにちょうどいい。広すぎず狭すぎず、ほどよい距離感で過ごす場所になった。寒かったので、一時間ほどで二次会も終わってしまったが、風はなく、夜の空気は新鮮だった。誰かのスマホから、BGMが流れる。いきなり、ブランコに向かって駆け出す。一人ひとり、それぞれの公園への想いがあふれ出るようだった。
 

(左から)妄想の余白(安藤 あかね・牧野 岳・山田 琴乃)|共感する余白(太田 風美・笹川 陽子・田村 糸枝梨・水野 健)|バーカウンター的余白(坂本 彩夏・佐藤 しずく・中田 早紀)|〈ちょうどいい〉余白(染谷 めい・堤 飛鳥・藤田 明優菜・牧野 渚)

 
近年、まちなかに偏在する「すき間」や「空き地」にはたらきかけて、居場所をつくろうという試みを目にするようになった。もちろん、それを「戦術的(タクティカル)」だと謳って考えてゆく方法もあるが、もっとゆるくていい。たとえば、浦和で誕生した「裏輪呑み」のような感じだ。100円ショップで手に入れたマグネット付きのバスケット(冷蔵庫などに貼って使う)を裏返して、標識やシャッターなど、まちのあちこちの金属に取り付けてちいさなテーブルにする。このゆるさが、好きだ。でも、この「裏輪呑み」でさえ、道具を必要とする。もっとゆるく、いっそのこと道具など準備せずに、場所の可能性を引き出すやり方を考えてみたい。かぎりなく手ぶらに近い状態で、まちと応答しながら居場所をつくるのだ。そのためには、あたらしい可能性をひらく、まちの「余白」に気づく感性が必要になる。
 
ぼくたちが大切にしている「気づく力」は、余裕がないと発揮できないものだ。だからこそ、今年度は「余白」をテーマにして向き合ってきた。秋からは、恵比寿駅を中心に半径500メートルのエリアを対象地に設定して、「恵比寿の余白」をさがしている。まずはスケジュールをやりくりして、のんびりとまちに出かけるところからはじめよう。
 
まちなかの「余白」は、ふだんは見えていなくても、ぼくたちの想像力を駆使すれば、見えるようになる。二次会に使える立ち呑みふうの場所は、公園の日常のなかにひっそりと隠れているが、条件が整えば、居場所として立ち現れる。その条件とは、「もっと話したい」「もうしばらく一緒にいたい」というような、ぼくたちのコミュニケーションへの欲求と無関係ではない。「余白」は、他でもない、ぼくたちによってつくられるのだ。

「恵比寿の余白」は、2020年2月7日(金)〜9日(日)にかけて開催した「フィールドワーク展XVI:むずむず」(https://vanotica.net/fw1016/)で展示しました。