チャラ

Go Well Together

はじめに

加藤 文俊

 

釣り合うコミュニケーション

友人とともにすすめている「カレーキャラバン」の活動は、すでに8年目に入っている。全国のまちを巡りながら、みんなで一緒にカレーをつくって一緒に食べるという、楽しい「場づくり」の実践だと理解する人が多いのだが、それだけの話ではない。「職業柄」ということなのだろうか。じつは、カレーをつくっているときでも、フィールドワークについて考えていることが多い。フィールドワークというと、いささか大げさに聞こえるかもしれない。社会や文化について知るための「社会調査法」としての側面がおのずと際立つと思うが、その基本は、じぶんを取りまくモノ・コトをつぶさに観察、記録することだ。そう理解すると、フィールドワークは、人びとの暮らしに近づき、かかわりをもつことによって成り立つことに気づく。まちかどで鍋を炊くのは、そのきっかけをつくるためだ。
カレーキャラバンは、食材は自腹で購入し、スパイスや調理用の器財はじぶんたちのものを使う。そして、できあがったカレーは、いつも無料で配る。「炊き出し」であり「ふるまい」なのだが、もともとビジネスという発想はなかった。むしろ、すぐに収益や持続可能性を問う風潮に閉口気味だったので、「ビジネスモデル」の向こうをはって、「赤字モデル」を提唱した。なぜ、わざわざ赤字になるとわかっていながら活動しているのか。ぼくたちのやり方について、説明を求められることがある。
無料で配っているのだから、その場で金銭的な「交換」はない。はじめて訪れたまちで、出会った人びととことばを交わす、そして友だちになる。それは、とても豊かな時間だと実感している。あえていうなら、自腹(赤字)は、その体験をえるための対価だ。だが、そもそも対価などということばさえ違和感がある。8年も続いているのは、これが、まちで人と出会い、関係を育んでゆく方法として、ちょうどいいと思っているからだ。赤字ということばは、やや自虐的に使っているだけで、ぼくたちとしては、じゅうぶんに「釣り合っている」のだ。

カレーキャラバン(https://curry-caravan.net/)というかかわりは、「チャラ」という観点からとらえなおすことができるだろうか。(イラスト:江口亜維子)

 

「チャラ」という関係

では、「釣り合っている」というのはどういうことだろうか。人間関係やコミュニケーションを考えるとき、ぼくたちは、しばしば「釣り合い」を気にする。お世話になったと感じたら、返さなくてはと思う。じぶんは、相手に見合う存在なのか、つねに気にする。がんばったら、少しは褒めてもらえるのではないかと期待する。なるほど、ぼくたちのコミュニケーションは、つねにバランス感覚を問われるものなのだ。
こうしたバランス感覚のありようについて考える作業用のことばとして、「チャラ」をえらんでみた。いわゆる貸し借りなしの状況を「チャラ」だと理解することが一般的だと思うが、多様なコミュニケーションの文脈で「チャラ」をとらえなおしてみようという試みである。ぼくたちは、関係性の表れのなかから、どのようなバランス感覚を読み取ることができるのだろうか。学部の2・3年生が4つのグループに分かれて、それぞれが自由な発想で「チャラ」に向き合った。
今学期は、新型コロナウイルスの感染拡大によって、思うように授業をすすめることができなかった。とくに、春から「研究会(ゼミ)」に加わったメンバーには、けっきょく一度もキャンパスで会うことなく、学期が終わってしまった。グループワークも、オンラインが中心だった。
窮屈な毎日を強いられていたが、そのなかで、「あたらしい生活様式」や「あたらしい日常」といったことばを頻繁に耳にするようになった。もちろん、健康や安全に配慮しながら暮らすためには、いままでどおりでは難しいことがたくさんある。だが、「あたらしい」ということばが、強い力を持っていることには注意が必要だ。たとえば「あたらしい」を唱えながら〈これから〉について語るとき、〈これまで〉との「釣り合い」はどのように考えればいいのだろうか。「あたらしい」を添えることによって、〈これまで〉が瞬時に上書きされてしまうように思えてならない。それほど簡単に「チャラ」になるはずなどないのに。長い時間をかけて培われてきた経験や知恵によって「釣り合っている/釣り合っていた」モノ・コトを、いまいちど丁寧に見つめなおす。「チャラ」は、そのためのことばとして位置づけることもできるだろう。
 

さまざまな「チャラ」

いつも、グループワークのテーマは、ぼくの気まぐれで決まる。何かひとつの「こたえ」があるわけでもなく、ぼく自身が考えてみたいこと、気になることを「課題」というかたちで学生たちに問いかける。学期中は、学生たちの進捗を聞きながら、ぼく自身も考える。その探索的なプロセスが、いつも愉しい。最近では「〜的」「余白」などをテーマにえらんだ。今回の「チャラ」もそうだが、いずれもコミュニケーションにかかわることばだ。
報いのチャラ]は、本番に向けて練習を重ねる状況からアプローチを試みた。無事に本番のステージを迎えて、トレーニングの日々が報われるとき、ぼくたちは「チャラ」を感じるのだろうか。[原動力のチャラ]も、似たような発想かもしれない。じぶんたちの生活習慣を見直しながら、「チャラ」のポジティブなとらえかたを示唆している。「チャラ」が人と人との関係を表すのであれば、それは、日常のさまざまな文脈で観察できるはずだ。[映画の中のチャラ]は、映画のなかで、「チャラ」がどのように描かれているかを調べた。人びとが織りなすドラマを理解する手がかりになる。[見え隠れするチャラ]は、人によって「釣り合う」感覚が多様であること、その感覚のズレがどのように相互に理解されるのかに着目している。
 
もしかすると、「チャラ」になることなど、ないのかもしれない。「チャラ」は、「釣り合っている」状況を表しているとしても、その状況は移ろいやすく、ぼくたちが、つねにあれこれと気を遣ったり工夫をしたりしながら人とかかわっていることを際立たせるのだ。

 2020年 8月

報いのチャラ

原動力のチャラ

映画の中のチャラ

見え隠れするチャラ

参考文献

  • 加藤文俊・木村健世・木村亜維子(2014)『つながるカレー:コミュニケーションを「味わう」場所をつくる』フィルムアート社
  • 桜井英治(2011)『贈与の歴史学:儀礼と経済のあいだ』中公新書
  • 近内悠太(2020)『世界は贈与でできている』ニューズピックス
  • ケネス・ボールディング(1974)『愛と恐怖の経済:贈与の経済学序説』佑学社
  • マルセル・モース(2014)『贈与論』岩波文庫