ちいさなメディア論
GOOD THINGS COME IN SMALL MEDIA

ちいさなメディア・再考

加藤 文俊

“ちいさきもの”を愛でる

「ちいさなメディア(ちいさなメディア論)」ということばは、20年ほど前に使いはじめたものだ(2001年10月15日:https://fklab.net/chiisai/)。もともとは、『小さなメディアの必要』(津野海太郎, 1981)や『ガリ版文化史』(田村紀雄・志村章子, 1985)などに触発されて考えはじめた。「ちいさなメディア」という着想は、いくつかの観点から説明することができる。
まずは、物理的にちいさいということの意味に関心を持った。近年では「カワイイ」が社会的な事象を読み解くのに使われることがあるが、かつて『縮み志向の日本人』(李御寧, 1982)のなかで示唆されていたように、ぼくたちは、ちいさい・カワイイものに愛着や親しみをおぼえる。執拗なまでに〝ちいさきもの〟を追求する気質があるといってもいい。
物理的なサイズだけではない。マスメディアが不特定多数を受け手として想定しているのに対して、もっぱら特定少数のあいだで流通することを志向している「ちいさなメディア」がある。空間的・時間的な広がりやボリューム(たとえば発行部数、発行の頻度や回数)が小規模であることとも関連して、作り手も少数であることが多い。大規模な組織で分業しながら作るというよりは、一個人が最初から最後まで、制作の過程にかかわることができる。「ちいさなメディア」は、ささやかながらも、一人の表現者として、自らの意見を世に問うためのきっかけをつくる。
手づくりのメディアは、さまざまな技術に支えられている。たとえばガリ版は、いまでは「ローテク」だと評されるかもしれないが、場合によっては、知識の複製・流通に役立つ。メディアの成り立ちは、つねに状況に依存しながら選択され活用されている。この20年ほどで身近になったデジタル技術やネットワーク環境の恩恵を受けながら、ぼくたちの表現の機会も方法も、じつに多様になっている。
 

「ちいさなメディア」とコミュニケーション

では、ぼくたちのコミュニケーションは、「ちいさなメディア」によって、どのようにかたどられるのだろうか。
①話の種になる いうまでもなく、「ちいさなメディア」には作り手が伝えたい内容が埋め込まれている。同時に“ちいさきもの”として目の前に提示される。そのモノとしての実感も、ぼくたちの五感にはたらきかける。つまり、内容だけでなく、作り方や作る過程での試行錯誤などもふくめて、「ちいさなメディア」は、コミュニケーションの文脈を設定し、共通の話の種となって、背後に広がる〈ものがたり〉を引き出してくれる。
②コミュニケーションを促す いま述べたとおり、「ちいさなメディア」は、作り手と受け手との距離(距離感)を調整し、コミュニケーションを促す役割を果たすといえるだろう。そして、さらに人と人を出会わせ、多様なつながりを育む(あるいはそのきっかけづくりという役割を担う)。「ちいさなメディア」によって人が動き、人とともに情報が動く。
③実験を支える “ちいさきもの”は、ぼくたちの実験的な思考を支えるための装置として位置づけることもできる。メディアは、つねに人と人の〈あいだ〉にある。結局のところ、コミュニケーションの経験は、メディアを評価・再評価する契機になる。現場での即興的な判断も、事後のふり返りも、いずれもふまえながら、メディアは逐次修正されてゆく。コミュニケーションは絶え間ない過程であるから、実験的な思考によって、メディアの位置づけ・意味づけも移ろう。
 

メディアをつくるということ

2021年の春学期も、新型コロナウイルス感染拡大の影響下でフィールドワークやグループワークをすすめざるをえなかった。とりわけ、メディアをつくるという課題にさいしては、コミュニケーションはもとより、試作や実験が重要な位置を占める。にもかかわらず、対面でのコミュニケーションが著しく制限され、かなり窮屈だったはずだ。
そんな状況のなかで、4つのグループがそれぞれの「ちいさなメディア」を考え、形にすることを目指した。まずは、あらためてメディアとしてのはたらきについてふり返ってみることが大切だ。どれほどちいさくても、ひとつのメディアとしてつくったからには、少しずつでも、丁寧に育てていく姿勢は忘れずにいたい。コミュニケーションは、止まらないからだ。

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