いけずなまち 2 It could have been better

はじめに


加藤文俊

 
2016年度は、「いけずなまち」というテーマでフィールドワークをおこなった。「いけず」ということばは、なかなか難しい。意地悪ではあるものの、どこか憎めない。面倒だが、「ガチで」闘うのもしんどい。だから、うまいつき合い方を考えたい。人間関係のみならず、まちとのかかわり方を考える際にも「いけず」ということばの持つニュアンスが大切なのではないか。そう思って、このプロジェクトを構想した。対象エリアは、「フィールドワーク展」の会場となる、みなとみらい(横浜市)界隈、具体的にはランドマークタワーを中心に半径500メートル圏内に決めた。「いけずなまち」は、ぼくたちがまちで出会う不具合や不便を理解するだけではなく、どのように向き合えばよいかという態度や方法について考えるプロジェクトである。
まちには、デザイナーの意図が、さまざまな形で表れている。ふだん目にする構造物や意匠は、きっと過去の経験や綿密なスタディにもとづいてかたどられているはずだ。もちろん、経済性や安全面への配慮もあるだろう。だが、ぼくたちは、気まぐれでわがままだ。座りたくなれば、座ろうとする。わざわざ人混みに紛れようとすることもあれば、人気(ひとけ)のないほうへと向かうこともある。
周到に計画されていたとしても、デザイナーの意図とは裏腹に、不便や不具合として理解されてしまうことがある。現代の都市空間が〈公〉(パブリック)か〈私〉(プライベート)のいずれかに分けられるようになってしまったことが、それをますます助長しているのかもしれない。〈公〉の場所は、美しく整えられているが、いくつもの制約によって窮屈な場所になっている。長居できない(長居させない)ことが、デザインのガイドラインになっていることさえある。〈私〉の場所は、そもそもアクセスが難しく、おまけに安全やプラバシーの保護を理由に、いままで以上に守られ、見えなくなりつつある。
その「あいだ」にある(あった)はずの〈共〉(コモン)は、どこにあるのだろうか。「誰のものでもあって、誰のものでもない」という場所こそが、人と人を出会わせるはずだ。「いけずなまち」という問題設定は、〈公〉と〈私〉との境界について考えるきっかけになる 。制約条件に真っ向から対抗するのは、不要なストレスを生む。だからといって、何もせずにはいられない。そんなときこそ、「いけずなまち」だとぼやきながら、まちの不便や不具合と朗らかに向き合ってみたい。
ぼくたちが目指すのは、「ゆるい」アプローチだ。「ゆるい」ことは、適当でもいい加減でもない。それは、「まちをひらく」方法にかかわるものだ。ヤン・ゲールは、『人間の街:公共空間のデザイン』のなかで、都市空間におけるアクティビティに共通する特徴は、活動の融通性と複雑性だと指摘する。

…そこでは、目的をもった歩行、一旦停止、休息、滞留、会話が互いに重なりあい、頻繁に入れ替わる。予測できない、計画性のない自然発生的な行動こそが、都市空間における移動と滞留をひときわ魅力的にしている。歩いていて人や出来事を見かけると、立ち止まってもっと詳しく見たくなったり、さらに腰を落ち着けたり、参加したくなったりすることがある。

「ゆるさ」は、融通性と複雑性に向き合う姿勢だと言えるだろう。〈公〉と〈私〉は、つねに緊張関係を保ちながら接している。そして、さまざまなきっかけによって、どちらかが(あるいは双方が)「ひらく」とき、〈共〉らしさをもった場所が生まれる。それぞれの想いは、すでに際(きわ)のところまで来ているのかもしれない。条件がそろえば、人は立ち止まり、腰をおろし、ことばを交わす。大切なのは、〈公〉と〈私〉の緊張関係は、境界線を「共有」することによって成り立っているという点だ。
今学期は、春学期の成果を引き継ぐ形で、三つのグループワークをおこなった。それぞれの成果は、ビデオやマップ、カタログといったフォーマットでまとめることになった。「いけずなまち」をどのように表現するかという課題も、まだまだ考える必要がありそうだ。(2017年1月)
 
◎参考