ささやかな抵抗

加藤 文俊

白と黒のあいだ

できれば自由にやりたい。そういいながら、ぼくたちはルールをつくろうとする。「ここまでは、だいじょうぶだ」という「線」を引く。ルールをつくって「線引き」をしておけば、たとえば誰の責任なのかがはっきりする。何かあったときのことを考えて、いくつものルールをつくっておくのだろうか。
ぼくたちの日常生活には、さまざまな「線引き」がある。ときには、引かれた「線」を目安にしながら、じぶんの到達点を決めてしまうこともある。ひとまず、その「線」に近いところであれば、基準を満たす(文句は言われないはずだ)。だから、それ以上のことはやらないし、その先に何があるのかを確かめようともしなくなる。目標のようでいて、じつは妥協点としての意味合いばかりを気にかけているのかもしれない。
いっぽうで、ぼくたちは、「線引き」が難しくて「白か黒か」を判断できない事柄がたくさんあることも、経験的に知っている。白と黒とのあいだには、つねに「グレー」が横たわっているのだ。「グレー」な部分の広がりは、当然のことながら状況によって変わるし、人によってちがう感覚で向き合っていることもある。じつは、自由というのは、「グレー」をどうとらえるかということなのかもしれない。「グレー」は曖昧な領域だから、できるだけそぎ落としたほうがいいのだろうか。それとも、「グレー」があるからこそ、ぼくたちの暮らしがいきいきとしたものになるのだろうか。 
 

「線引き」を見に行く

まちを歩いていると、さまざまな「線引き」を目にするはずだ。道のどちら側を通ればいいのか、どこまではみ出していいのか。文字どおり、いろいろな「線」が路上に引かれていて、ぼくたちの動きに自由や制限をもたらしている。看板や貼り紙も、執拗にメッセージを発する。「線引き」は、罰金などを伴うくらいの厳しいものもあれば、ぼくたちの裁量に任されているような緩やかなものもある。その意味で、「線引き」によって生まれる「グレー」な領域は、ぼくたちの(そして社会の)寛容さの表れとして理解することもできるだろう。
「グレー」な部分は、「線引き」をふまえながら、くり返し書き換えられてゆく。そして、「グレー」な状況に応じて、ぼくたちは、甘えたり甘えられたり、あるいは許したり許されたりする。ぼくたちのコミュニケーションは、「グレー」な領域の大きさや柔軟性を確かめようとする、不断のプロセスだといえるかもしれない。「どこまでだいじょうぶだろうか」という問いを現場にぶつけて、反応をうかがっているのだ。

コミュニケーションは続く

2025年度春学期は「ささやかな抵抗」というテーマで、フィールドワーク(グループワーク)をおこなった。たとえば、人びとの流れ、列の並び方、公共スペースでのふるまいなどに目を向けてみる。フィールドに足をはこんでいると、さまざまな決まり事が表示され、いくつもの「線」や「矢印」の類いが、ぼくたちのふるまいに影響をあたえていることに気づく。もちろん、経験的に知られていることや事前の調査などにもとづいて、一連の「線引き」がおこなわれていることはまちがいないだろう。
だが、メッセージの「送り手」の意図が伝わらないことも多々ある。ぼくたちは、一人ひとりの生活感覚で、気まぐれに、ときにはわがままに「線」を無視したり踏み越えたりする。ことばを交わさなくても、あるいは文字となってどこかに掲出されていなくても、ぼくたちは、それぞれの場所に埋め込まれた「ルール」を読み取りながら、「線引き」を解釈している。
注目すべきは、ぼくたちの無言の調整作業によって、大きな混乱もなく、「それなり」に場所の秩序が保たれているということだ。その背景には、おそらくいくつもの交渉やコミュニケーションがあったはずだ。それぞれの方針を優先させつつ、ときには譲りながら(ときには諦めながら)、順番を決めたり、空間の占有を主張したりする。まちや人びとの暮らしを、「ささやかな抵抗」の所産として眺めることで、さまざまな価値観が(とりあえずは)協調的に併存しているようすを理解することができるだろう。
ぼくたちは、よりよい状況(秩序状態)を目指して「ささやかな抵抗」を企て、環境にはたらきかける。それは、コミュニケーションを絶やすことなく続けていこうという意思表明なのである。

 
 

[参考]ジェームズ・C・スコット(2017)『実践 日々のアナキズム:世界に抗う土着の秩序の作り方』岩波書店