渋谷のプリズム
Shibuya Prisms

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渋谷体温物語

岩﨑 日向子・河井 彩花・芝辻 匠・黄 才殷
 

渋谷には人がいない

渋谷では、いたる所にステッカーが貼られ、あらゆる所に落書きがあり、いろんな落とし物やごみが道端に落ちていて、路上にたくさんの自転車が止めてある。そんな風景は特段目新しいものでもなく、「まあ渋谷なんてそんなものだろう」というくらいにしか思わない。渋谷でのフィールドワークを始める前の私たちは、渋谷の風景に目を凝らすこともなくただ雑踏に紛れて、迷わず目的地にたどり着くことだけを考えてこのまちを歩いていた。テレビ番組で見るスクランブル交差点は本当に渋谷にあって、米粒くらいに見えていた人間がたしかにそこを行き交っていた。すれ違う人の顔をいちいち確認していたら目が回ってしまいそうなほどたくさんの人がいるこの渋谷で、私たちはどれほど他者の存在を認識できているだろうか。渋谷を行き交う人々それぞれに生活があることを、どれほど想像できているだろうか。
 

痕跡を見つける

秋学期の間、私たちは渋谷をひたすら歩いた。多い時は週に3回渋谷に足を運び、いろいろな場所を歩きまわった。歩きながらとった写真を見返すと、ある一定の性格づけをすることができた。建物と建物の間に設置される柵や、その周辺にわざと目立つように設置されている防犯カメラ。隠すように、しかし無遠慮に捨てられたペットボトルやタバコの吸い殻。茂みに残された人のお尻の大きさぐらいの凹み。渋谷の広範囲に点在する「ECY」や、数日前に歩いた際にはなかった「I NEED 愛」の落書き。歩道橋の手すりに残された「田中浩一」の証明写真。電柱に貼られたQRコード。柱のそばにきちんと揃えて置かれた作業靴。ポールの上に置いてあるビューラー…。その場に人はいないのに「ここには確実に人がいた」と思えるような痕跡に対して、私たちは反応していた。それはなんだか、電車で座った椅子がまだ生温かった時や、枕から恋人のシャンプーの匂いがした時のように、他者の存在を身体で感じる体験だった。どこか無機質で、よそよそしさを感じていた渋谷で、目の前にいない人の存在を感じること。その体験によって私たちは、渋谷にいる人々の生々しく具体的な生活を想像させられた。
 

〈じゃれあい〉から〈体温〉を感じる

渋谷で人の存在を生々しく感じた体験を、私たちは〈じゃれあい〉と〈体温〉という言葉を共有してふりかえる。〈じゃれあい〉という言葉では、渋谷を管理する人とされる人の調整のことを言い表そうとした。駐輪禁止の看板の少し横に停められた自転車や、標識の表面ではなく裏面に貼られたステッカーを見て、渋谷に対してちょっかいを出す人とそれを止めようとする人が互いに距離感を調整しているのではないかと考えたのだ。しかし次第に、〈じゃれあい〉という表現を使うことで、渋谷にいる人々をラベリングしてしまい、見たいものが見えなくなってしまっているのではないかと感じ始めた。一方で、〈じゃれあい〉を観察することによって、自転車を停めた人と撤去する人、ステッカーを貼る人と剥がす人というように、渋谷に存在する人と人の間に輪郭が引かれ、より具体的に人の存在を想像できたことは確かだ。そこで私たちは、用意した属性を当てはめるのではなく、もっと目の前にあるものをじっくり見ながら、より適切に状況を言い表せる言葉を探すことにした。その結果たどり着いたのが〈体温〉である。〈体温〉は、渋谷に人がいることを私たちが鮮明に感じた体験を共有するための言葉である。電柱の落書きや、道端の落とし物を発見した時、「どうしてこれを書いたんだろう」「誰が落としたんだろう」とそこにいた人のことを想像する。ステーションにひかれた誰かのパスと、私たちのパスが重なり、バンドルを結ぶその瞬間、私たちはそこに人の存在を感じる。それを〈体温〉という言葉で表現した。パスが空間的、時間的に一致はしないが、そこに人の温度を感じられる景色が渋谷にはある。離れているのに温かく、誰もいないのにそこにいるように感じる。この渋谷の見方が、私たちにとっての渋谷のプリズムである。
 

428文字で書くこと

渋谷のこの生温かさを、どうにかして他者に伝えたい。そう思った私たちは、428(=シブヤ)文字で文章を書くことに決めた。言葉を使うことは、世界の認識の仕方を表現することである。渋谷で感じた体温を、渋谷にいたであろう人びとを、自分たちの言葉を使って表現する。字数に制限をかけることで、普段何気なく発する自分の言葉についてじっくり考え、悩み、迷うことになる。427文字でも429文字でもなく、428文字で書くことによって、細部まで表現にこだわらざるを得なくなる。そのことで、私たちの渋谷への眼差しはよりシャープになり、感情を丁寧に描き出すようになる。私たちは実際に、428文字の原稿用紙を作り、手に持って渋谷に出かけた。そして歩きながら発見した痕跡から発想して、「渋谷体温物語」を自由に綴る活動をした。グループのメンバー4人が書く文章は、内容も、文体も、それぞれに個性的で、一緒に渋谷を歩きながらも頭の中には全く違う世界観が展開していた。あなたと私は違うということを感じることであり、同時に渋谷にいる人びとがそれぞれに独立して生活を営んでいる存在であることを認識することでもあった。
想像でパスを形成する私たちは、その場に人がいないのに人の存在を感じるという状況に注目した。痕跡を見て〈体温〉を感じる時、パスとパスは交差しない。私たちは、文章を書くことを通じて、〈体温〉の持ち主と想像上でパスを結び、バンドルを形成した。その時、顔も名前もわからない他者は生々しいリアルな存在になり、単純な記号の集合だった渋谷に、わらわらと複雑な個人が浮かび上がってくる。そしてようやく、渋谷にはたしかに人が存在するのだということを感じられる。秋学期の間、フィールドワークを行っていた私たちもまた渋谷を形作る一員である。一人の生活者として渋谷について考えながら、これからも渋谷を歩く。