渋谷のプリズム
Shibuya Prisms

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渋谷のゴミから

池本 次朗 ・ 大森 彩加 ・ 西谷 唯香 ・ 渡邉 鋼太郎
 

「待ち合わせ」への注目

9月、「渋谷のプリズム」というテーマを聞いた私たちは、参考資料を読み、プリズム・パス・バンドル・ステーションなどの時間地理学のワードを把握するとともに、グループワークの意図を話し合った。
最初に私たちが関心を持ったのは「待ち合わせ」についてだった。渋谷でグループワークを行った際、私たちは即興的に「集まれるかゲーム」と称した活動を行った。「集まれるかゲーム」でそれぞれのメンバーは、自分がいる場所の写真を情報量が意図的に減るように「わかりにくく」撮る。そうして撮った写真をSlackのチャット上にアップし、互いのいる場所を推測し集合する。初回は、渋谷駅西口スクランブル交差点から渋谷109周辺のエリアで集合した。実施してみると、送った写真が他の人よりもわかりやすいため、他の人の写真からいる場所を理解し移動を始める人や場所が伝わらず移動しながら何度も写真を撮り直す人など、グループメンバーの動きに様々な違いがあることがわかった。
初回の待ち合わせの後、話し合いや先生からのアドバイスをもとに「待ち合わせのプリズム」を事前に作成し、その通りに「集まれるかゲーム」を実施することにした。人と人が待ち合わせるとき、それぞれ別の場所にいた人が同じ場所へ向かうことでパスは合わさってバンドルになる。これらのプリズムは移動や滞在などの行為が終わった後に「事後的に」書かれる。私たちは、そのプロセスを逆からたどり、待ち合わせのプリズムをあらかじめ計画しその通りに行動する「事前的な」集合を行ってみることにした。それぞれのメンバーの動きを事前にプリズムに記入し、その通りに動いて集合するという活動が、ゲーム的なおもしろさを引き出すのではないかという予想があった。しかし実際にゲームを行ってみると、プリズムによって集合を計画することは想像よりも難しいことがわかった。プリズムによる指示がある状態だと、待ち合わせ場所に移動することが義務的なものになってしまい、普通に集まるよりも面白みのない待ち合わせになってしまった。
 

「ゴミの観察」への移行

待ち合わせへの興味から集まれるかゲームの面白さを追求しようとした私たちだったが、待ち合わせにこだわりすぎて他のものが見えなくなってしまった。そこで、事前の準備をせずに渋谷の駅周辺で気になるものを探すことにした。歩く中で気になったのが、様々なところに無雑作に捨てられていた空き缶やビニール袋などのゴミだった。リサーチを行った日がサッカーW杯の試合翌日だったため、ゴミは試合を見ていたサポーターたちが捨てていったものだと考えた。
渋谷に落ちているゴミに興味を持った私たちは、12月25日の深夜から26日の昼にかけて、交代しながら駅周辺に落ちているゴミの観察を行った。観察を始めた深夜は、クリスマスの夜を渋谷で過ごした人々が捨てていったと思われるゴミがあちこちに散乱していたが、朝から昼間にかけて清掃作業にが行われ、それらはさっぱりと無くなっていた。しかし、清掃が行われる場所は駅周辺の目につきやすいところが中心で、駅から離れた路地裏には昼になっても変わらずゴミが落ちていた。同じゴミでも、落ちている場所やゴミ自体の大きさなどによってその場に残るものと回収されるものに分かれるという点に興味を惹かれた。私たちの関心はその場に留まり続けるゴミや、そもそも人は何をゴミと見なしているのかという点に移った。
 

ゴミと「用途」

そこで、私たちは物が捨てられる現場に介入してみることにした。「ゴミ=用途が終了したもの」という仮説を立て、「用途が終了したもの」「用途が残っているもの」「用途が残っているか微妙なもの」の3種類に分類した物を、待ち合わせスポットとして知られるモヤイ像の周辺に置き、行き交う人々がどのような反応を見せるのかを交代で観察した。この時は「用途が終了したもの」として空き缶と紙コップ、「用途が残っているもの」として未開封のカイロ、「用途が残っているか微妙なもの」として片方のみの手袋を設置した。空き缶や紙コップはそのまま放置されていた。未開封のカイロは設置してすぐに持ち去られた。片方のみの手袋は、はじめ多くの人が無視していたが、少し経った後に誰かに拾われ、モヤイ像の口部分に投げ入れられた。その途端、通り過ぎていた人々が手袋を指差し、視線を向けるようになった。
この結果から、物がゴミとみなされる際「用途」の有無が影響を与えていると考えた。使い捨てカイロが持ち去られたとき、中身だけ持ち去られたことがあった。持ち去った人にとって身体を温めるという用途がある中身だけが必要で、包装は不要と判断したのだろう。
一方で、手袋への人々の反応から、「用途」は事前に定義できるようなものではなく、その時々によって変化するとも考えた。片方のみの手袋からは「手を温める」という用途は半分失われているため、道に落ちている手袋に人々は注意を向けない。しかし、ふと拾い上げた人(その人はまだ用途が残っていると思ったかもしれない)がモヤイ像の口に手袋を投げ入れたことで、「手を温めること」だった用途は「モヤイ像の一部分」に変わり、手袋は一気に注目を浴びることになった。誰かにとってのゴミも、別の誰かにとってはゴミではないのかもしれない。
時間地理学の視点からゴミを考えてみる。物は自分の力で移動することはできず、移動するには人に持ち上げられたり、蹴られたりする必要がある。ある物を中心としたプリズムを描くとき、そのパスは、物を持ち上げたり蹴ったりした人たちの断片的な行動を記録している。「そもそも人は何をゴミと見なしているのか」という私たちの関心は、物のパスが動く瞬間に向いていたといえる。モヤイ像の前に設置されたゴミが描くプリズムは、たくさんの人が行き交う渋谷における、物と人の関係性を伝えている。
 

ゴミと人の関係性

成果物として、観察する中で印象に残った物を主人公にした絵本を4種類作成した。絵本という形にしたのは、絵本のストーリー内でゴミを擬人的に取り上げることで、物の「用途」は場合によって移り変わっていくことを伝えることができると考えたからだ。これらの絵本を読むことが、渋谷のゴミと人との関係性を考えるきっかけになればと考えている。