ぎこちない距離

 Awkward Distance 

はじめに

 

加藤文俊

 

11月になった。時間は容赦なく流れてゆく。ふと立ち止まって、この半年間をふり返りたい。そんな気分になることが多い。もちろん、ひとまず安全に健康に生きながらえているのは喜ばしいことではあるが、なんとなく、地に足がつかないような半年だった。
あらためてふり返ってみると、半年間で変わったことがたくさんある。むしろ、変わってしまったと言ったほうが正しいかもしれない。多くは、目に見えない恐怖心から、不安や混乱を強いられながら受け容れてきたことだ。同時に、周りの変化をしなやかに取り込んでゆく、人の逞しさを実感する場面も少なくない。
 
たとえば、ぼくにとって身近な文脈で語るなら、なにより、4月の緊急事態宣言が発令されたころから、大学が変わってしまったことが大きい。授業は、すべてオンライン開講になり、学生たちはこの半年、キャンパスに立ち入ることができなかった。規則的にキャンパスに通い、教室で学生たちの顔を眺めながら授業をする。この“あたりまえ”だった毎日が、どこかに行ってしまった。家で過ごすことが多くなって、移動や時間の使い方にかかわる生活のリズムを見直すきっかけにもなった。そして、「大学とは何か」というさらに大きな問いを投げかけられているのだと実感する。
 
少しずつ制約が緩められて、またキャンパスに集うようになった。やはり、実際に会えるのはいい。ひさしぶりの学生たちとの対面を、まずは素直によろこんだ。だが、いろいろと面倒なこともある。もちろん、感染拡大を防止するための措置なので、必要なことだとは認めつつ、あらためて教室の風景を眺めてみる。換気のために窓は開け放たれ、扇風機の音が響く。いわゆる「スクール形式」のレイアウトで、(これまでとだいぶちがうので)なんだか落ち着かない。話すときは、マスクをつけたままだ。どうしても声はこもりがちになって、プレゼンテーションも質問・コメントも聞きづらい。「これはちがう」「いまはしかたない」と、じぶん(たち)に言い聞かせながら授業が進行している感覚だ。
 
ぼくたちは、コミュニケーションせざるをえない存在だ。たとえばじっと黙っていたり、音信不通のままでいたりすること自体、その人の状況(そして、ぼくとその人との関係)を語っている。さまざまな状況について思いをめぐらせていると、コミュニケーションは、お互いに適切な「距離」を求めて調整し合う過程だということにあらためて気づく。まさに、この半年間で、否応なしに意識せざるをえなくなったのは、人との「距離」のありようなのだ。
ぼくたちは、「距離」を手がかりにすることで、人との関係性を慮ることができる。時代や文化的背景によってことなるが、ホールが『かくれた次元』で整理したように、ぼくたちは、相手との関係に応じて近づいたり離れたりすることを経験的に知っている。もちろん、その時々のぼくたちの内面も「距離」に表れると考えてよいだろう。
 
いま、ふたたびキャンパスで(多少なりとも)人に近づくとき、マスクをしなければならない。動きや息づかいを感じられる「距離」(といっても“社会距離”を保ちながら)まで近づくために口元と鼻を覆って表情を消し、ちいさな声で接する。いっぽう、遠く離れた場所とつないで、画面越しに話をするときにはマスクをはずして、大声で笑うこともできる。これまでは、近づけば近づくほど、〈あいだ〉を遮るものがなくなっていったはずなのに。逆に、遠く離れるからこそ、親しさを実感できる場面がつくられることも少なくない。近いのに遠い。遠いのに近い。慣れない「距離」は、ぎこちない。
 
半年前、ぼくたちは、予期せぬ形で(そして嬉しくもない形で)「自粛生活」という実験に参加せざるをえなくなった。この実験に参加しながら、ぼくたちは、否応なしに“あたりまえ”を見つめ直している。それは、ぼくたちをとりまくさまざまな「距離」と向き合いながら、コミュニケーションの本質を再考するきっかけなのだ。
 
2020年11月

ちぐはぐなSNS
 
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