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加藤 文俊
 

「事件」が起きた

昨年の秋ごろだったと思う。依然としてCOVID-19の影響下にはあったが、少しずつ制限が緩められて、人と会う機会が増えつつあった。そんななか、一人の学生から「先生は、学生と一緒にごはんを食べに行くことなんてあるんですか」と聞かれた。字句どおりに再現できているかどうかわからないが、とにかく真顔でそのような質問をされたのが強く印象に残っている。「そんなこと、きっとないんだろう」という口ぶりだった。
ぼくからすると、これはちょっとした「事件」だった。これまで、「キャンプ」と称して、学生たちとともに全国のまちを巡るフィールドワークを15年ほど続けてきた。だから、学生と寝食を共にする機会は多かった。「カレーキャラバン」のプロジェクトは、(いまは一時的に休んでいるものの)まさに協同調理の実験で、最後はみんなでカレーを食べる。「研究会(ゼミ)」のあとは、どこかに食事に行ったり、大学の研究室で簡単なものをつくったりしていた。クルマ通勤なので、キャンパスの帰りに飲みに行くことはなくても、別の日に横浜でも渋谷でも、一緒に出かけることはめずらしくない。それが、ぼくにとっての「あたりまえ」なのだ。少なくとも「あたりまえ」のつもりでいた。

「教室」という形式ばった場所を離れ、「授業」という時間設定をこえて、もう少し自由にのびやかに語らう状況が、日常のなかにたくさんあった。というより、そうした「余白」ともいうべき時間や空間こそが大切だと思っている。そして、たいてい、そこには食べものがある。それが、コミュニケーションや「場づくり」への関心に直結しているのだ。だから、「事件」というのは、決して大げさな表現ではない。ぼくにとって「あたりまえ」のことが、共有されていなかったからだ。
これまでの活動記録や書籍などを見れば、ぼくが学生たちと一緒に食卓を囲んでいるようすがたくさん出てくるはずだ。だが、「あたりまえ」を知らないからといって、それを責めるわけにもいかない。誰かと一緒に食べたり飲んだりすることは、まさに身体ごと感じる体験なのであって、たとえば動画でそんなようすを観たとしても実感がわかないのは当然のことだ。だからこそ、真顔で聞いたのだろう。じつに無垢な質問だったのだ。

「あたりまえ」のこと

この「事件」は、放っておくわけにはいかない。たしかにここ数年は、ずいぶん窮屈な暮らしを強いられていた。その間、ぼくにとっての「あたりまえ」も、不自然なままだったことに、あらためて気づいた。それを、少しずつでも取り戻せないだろうか。そう思って、今年度の春学期は「共食」をテーマにした。ここで重要なのは、ぼく自身の「取り戻したい」という欲求自体も、「あたりまえ」と深くかかわっているという点だ。つまり、そもそも入学と同時期に「社会的距離」や「黙食」といったことばに翻弄されてきた「現役」の学生たちとって、「取り戻す」という感覚は生まれるはずもない。
ずっと厳しく禁じられていたのだから、「一緒に食べよう」などと声をかけても、実感がわかないだろう。「そんなこと、きっとないんだろう」と思っていたことを唐突にはじめようとしても、上手くいかない。だから、「取り戻す」のではなく、あたらしい経験のレパートリーを、一緒に「つくってゆく」ということだ。
「共食」は、文字どおり、誰かと「ともに食べる」状況を指す。「個食」や「孤食」と対比されながら、なんとなく「共食」にはよいイメージがともなう。もちろん、誰かと一緒に食卓を囲むのは楽しいことだと思う。だが、当然のことながら、共食=団欒ではない(福田, 2021)。誰かと一緒に食卓を囲んでいても、それが和気あいあいとした楽しい時間であるとはかぎらない。だから、「研究会」のあとで、教員が学生と食事に行くという「あたりまえ」のように思えることも、あらためて考えてみたほうがよさそうだ。
そもそも教員と学生という関係を考えれば、無意識のうちに儀礼的な食事として理解されることは大いにありうる。同じ食卓を囲んでも、間が持たないことだってあるだろう。
いずれ会社勤めをするようになれば、席次を確認したり、周りを気遣ってことばを慎んだりすることがあるかもしれない。さまざまな社会的な役割を負うと、気がすすまない「共食」の場面もたくさんあるはずだ。それさえ、平成の30年間と、ここ数年の「リモートワーク」の経験を経て、大きく変容しつつある。だから、まずは、(誰かと)「ともに食べる」という状況に近づいて、つぶさに眺めてみる必要がある。
 
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