ホーム | 2メートル再考

青山 洸・河井 彩花

 

共有している問い

2020年からの2年間は、新型コロナウイルス感染症(以下、コロナ)の感染予防対策のため、制約の多い日々を送った。まちには「ソーシャルディスタンス」の確保を呼びかけるサインが溢れ、食堂は白や透明のパーテーションで区切られた。
2019年に高校に入学した青山は、高校生活の半分以上をコロナの影響下で過ごした。教室や食堂は白いパーテーションで区切られ、昼食も教師の指導の元、黙食が徹底されていた。2020年に大学に入学した河井は、他者とものを食べることに対する緊張感を常に持つようになっていた。感染してはいけない、感染させてはいけないというプレッシャーは、他者とものを食べることは悪いことだという意識を形成した。
2023年からは、感染予防対策が緩和された。「元に戻った」と表現されるキャンパスでの生活は、人と共に食べる場面が多くあった。キャンパスに新しくできた食堂で、ひさしぶりに会った友人と同じテーブルで食べたり、研究室での作業中にお菓子を一緒に食べたりすることが増えた。これまでよしとされてきた「共に食べない」ことは覆され、「共に食べる」ことが人間関係を円滑に築くための行為の一つになった。そのような場面は、楽しい一方でどこか無防備なようにも思えて、その瞬間を噛みしめながらもそれまでの2年間を考え込んでしまうことが多々あった。目の前で起こった変化は、私たちには不安なことにも思えた。
2メートルの距離を保っていた2年間はなんだったのか。あの2メートルを、今どのように意味づけをすることができるのか。これが、私たちが「共食」について考える時に前提とした問いである。このグループでは、「距離」の観点から共食というテーマに答えることを目指す。

かくれた次元

アメリカの文化人類学者であるエドワード・ホールは『かくれた次元』の中で、人間が維持しようとする距離について、密接距離、個体距離、社会距離、公衆距離という4つの言葉を用いながら整理して論じている。
コロナ禍において多用されてきた「社会的距離(ソーシャルディスタンス)」という言葉は元来、物理的な距離だけではなく、心理的な距離を表す言葉として社会学で用いられてきた。社会学・文化人類学における「社会距離」は、主に仕事上の関係、言い換えればフォーマルな関係で保つ距離である。この距離においては、お互いの顔のディティールを見てとることはできず、特別な努力なしに相手に触れることはできない。つまり、2メートルという距離は、人を互いに隔離し遮蔽するものであると言うことができる。
2メートルについて考えるために私たちは、以下の二点に注目した。一つは、他者との距離の取り方は意思を伝達する手段であるということ。もう一つは、距離の感覚は状況によって変化するものであるということだ。人間の空間と距離の感覚は不変のものではなく、状況に応じて変化していくものである。他者と共にいるときの距離は、そもそも一律に定められるものではなく、相手とのやりとりの中で状況依存的に調整していくものだ。
コロナ禍、私たちは与えられた距離で過ごすことを強いられていた。感染予防対策が緩和され、再び自由な行動ができるようになった今だからこそ、改めて自らの手で「距離」を生み出し調整するという営みを取り戻すべきなのではないだろうか。
 
◎つづきをブックレット(電子版)で読む → ブックレット