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大西 美月・坂根 瑛梨子・渡邉 鋼太郎

 

ご飯の気まずさ

友人と食卓を囲む。「それ美味しそうだね」「一口ちょうだい」「最近思ったんだけど...」ご飯を食べていると、自然と色々なことについてつい話したくなる。誰かと食事をする時、私たちは相手をよく観察し、それまで気にならなかった変化や関心について共有しようとする。知らなかった相手のことについて、新たに気づき共有できるからこそ、誰かとの食事は楽しいのだ。私たちは共食の楽しさを、相手についてそれまで知らなかったことに気づき、共有できる点に見出した。楽しい共食で私たちは、食事がもたらす相手を知る手がかりを汲み取って、積極的に気づきを共有しようとするのだ。
一方で私たちは、誰かとの食事を気まずいと感じることもある。気まずい食事で私たちは、相手を知る手がかりを無視したり、気づきを共有することを放棄しているのだろうか。気まずさとは何なのか、なぜ気まずさは生まれるのだろうか。

黙って食べなさい!

2020年、それは突然現れた。新型コロナウイルスの蔓延、そして黙食という食事スタイル。「黙って食べなさい」という掟は、古く日本の歴史を遡れば当たり前のことでもあった。だがそのなかでも食後団欒は常に存在していた。外食文化の浸透とともに、食事は団欒の場として、人間関係の本質を構成する重要なものだと言う認識が広がっていった。共食は常に楽しいものであった。
黙食は共食のあり方を大きく変えた。学校での給食の時間やレストランで黙食が強いられるようになった。人間の食事は会話と切り離すことができない。会話ができない辛さ、団欒と切り離された食事のつまらなさは我々の記憶に新しいものだ。歴史学者の藤原辰史は、2022年11月2日の日本経済新聞に掲載された記事で小学校の給食について、給食中に生じる共食は、子どもたちの心のつながりを育み、心身の土台になる大切な時間だと述べており、その上で、黙食という食事のあり方を強く問題視している。
私たちは黙食によって、食事中に会話がないことの異常さを初めて認識した。会話ができない状況のもと、向かい合って、あるいは隣同士に並んで食事をすることは、非常に気まずいものであった。黙食は、共食の楽しさを奪ったものとして、共食を阻害するものとして、私たちの記憶に強く刻まれた。それはすなわち、共食において会話が共食の楽しさの大部分を司っているということを意味しているのではないか。黙食体験は私たちに、普段、制限なく会話ができる共食の楽しさを教え、会話がない状況の気まずさを感じさせてくれた。
 
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